"想像力"で差別を軽減できるか?

 最近没頭した本の話を書こうと当初思い立ったものの、折しも、読んだ本が冷戦時代のNASAを支えたAfrican Americanの女性たちを描いた"Hidden Figures"だったので、本の感想から派生して、今アメリカに留まらず世界中に広がるAfrican American差別への抗議活動に寄せ、African American差別に留まらず、世界中で生まれている様々な「差別」について思うところを書いてみた。何者でもない小娘の意見なので、未熟さが滲み出てしまうであろう、、しかしそうして未熟さを露呈することも、"熟した"大人になるためのステップだと自分に言い聞かせ進んでみることにする。


差別への反応の仕方


 まずはそもそも書こうと思っていた本の話から、African Americanが差別に対し、どんな姿勢で立ち向かうか、について。"Hidden Figures"は冷戦時代のNASAを支えたAfrican Americanの秀才女性エンジニア達の話。

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数年前に映画化もされている

 著者の意図を確かめた訳ではないが、題名のFiguresには2つの意味が掛けられてると勝手に思っている。彼女達が携わったロケット発射、最終的には月に行って帰ってくるまでの綿密な計算の、「数字」という意味のFigureと、当時まだ女性は活躍し辛く、しかも人種差別の風潮も根強く残っていたアメリカで、なかなか表立って脚光をあびることは無かったが確実に縁の下の力持ちだった「人物」という意味でのHidden Figures。性別と人種という、二重の社会的ハンデを抱えながらも、自らの実力で周囲を認めさせ、偉業を淡々と成し遂げた若き女性達がそれはもうカッコいい……


 ここで感じたこととしては、African Americanは、不当な扱いを受けても憎しみや怒りに任せて反応するのではなく、相手を「許し」、能力・実力を持って静かに相手を認めさせる寛大さを持ち合わせているということだ。例えばラグビー映画インビクタスに描かれたネルソン・マンデラ大統領を見ていても感じた。彼ら彼女らのそうした精神に触れるたびに崇高な気持ちになる。

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マンデラ氏が心に刻んでいたWilliam Ernest Henley作の詩の名前が"Invictus"。"I am the captain of my life"というフレーズが映画Invictusの中でも印象的


 一方で、今アメリカで起きている抗議運動が一部暴徒化しているのを見ていると、African Americanの人々が暴力という形で差別に反応しているとも取れ、今まで彼らの心に蓄積されてきた痛みや苦しみをはあまりに大きくそうせざるを得ないのかもしれない、と心が痛んでいたが、「差別への抗議」から単なるストレス解消へと目的がすり替えられて行くのを見て別の意味で悲しくなった。自分の生活、新型コロナウイルス感染拡大の影響で溜まった不安やストレスの憂さ晴らしのための行動もあったと思うし、実際、自分の欲しいもの(Apple製品やラグジュアリ品)を略奪しているような"便乗者"もいると言う。

  そこで声を上げたのが、そもそも抗議活動の発端となった事件の犠牲者の弟さんだった。


「私は暴動を起こしたり、自分のコミュニティをめちゃくちゃにしたりしていない。あなたたちは何をしているのか?」
「そんなことをして兄が帰ってくる訳ではない」
「別の方法でやろう」


 彼にしか言えない言葉であったし、実際、彼の行動がその後の抗議活動の形に影響を与えていると言う。事件の犠牲者に一番近い人の気持ちや、デモがもたらす結果を想像すれば、抗議活動の本質に立ち戻り、人々は暴徒化することはなかったはず。しかし人々がその想像力を欠いていたため、彼は自ら、人々の心に訴えかけ、人々に立ち止まって「想像」を促した。

 
人種のるつぼアメリカに住んでいて感じたこと

 

 

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住んでいた街の様子。美しく聳え立つゴシック式の教会の他は空と緑が本当に印象的

 子供の頃自分がアメリカに住んでいた時のことを振り返ってみる。住んでいた場所は、人よりも馬や鹿、リスやウサギや熊など動物の方が多いんじゃないかと思うくらい、本当に「Country side」で、当然外国人も少なく、日本人なんて市内で数えるほどしかいなかった。だからと言って差別に遭うことはなく、人々はとても暖かく、傷ついた経験をしたことはなかった。
※それはそもそも日本人の私たち家族と親しくしてくれるような人はオープンマインドで優しい人たちだから、あるいは、差別的ニュアンスを含むことを言われてもそれを理解するほどの英語力をそもそも持っていなかったからだったという可能性は無論あるが

 
 日本人であることを特別からかわれることはなかったものの、周りが皆、透き通るように白い肌、青や緑の瞳に、茶色や金髪の美しい髪の毛を持っているとなると、当然劣等感のようなものを勝手に抱いてしまう。しかし、上に挙げたどれも日本人の私に手に入るものではない。そこで、せめて髪質だけでも、この直毛ではなく、友達みんなのようにくるくるカールのついた髪の毛にしたい、という思いから、夜な夜なお風呂上がりに半乾きの髪の毛を三つ編みにして寝て翌日解くとくるくるになるようにしていた。 

 しかしある時、友達と話していて「私はみんなのように綺麗な髪の色・目の色を持っていないのでみんなが羨ましい」と打ち明けると、「あら、私はむしろAyakaの真っ黒な髪の毛や真っ黒な瞳が羨ましい。AyakaにはAyakaの良さがあるよ」と言ってくれて、はっとさせられた。「違い」をむしろ「良さ」として受け入れてくれたのだ。以降、私は夜な夜な三つ編みなんかにせず自信を持ってドストレートな髪の毛のままで学校に行った。

 その他の場面でも、友達は皆、現地やアメリカ人と日本や日本人との違いを、"weird"ではなく"cool!"という態度で受け入れてくれた。このような周囲の対応により、私も家族も、住んでいた二年間を気持ちよくハッピーに過ごすことができた。

 アメリカは多民族国家であるため、無論、肌の色など目に見える要素で国民を一つにはできない。その分、国民精神で国を一つにする必要がある。「アメリカ国民である」、ということを人々はきっと他の国民よりも強く意識して生活している。街で目にするアメリカ国旗の数も多く、私と弟は、アメリカに着いた初日からその多さに驚き、一日に何個見たか数えたりしたものだ。通っていた小学校でも、各教室アメリカ国旗が掲げてあり、毎朝、全員で胸に手を当てその国旗に向かってアメリカ合衆国への"pledge of allegiance"「忠誠の誓い」を唱えていた。(二年間毎日やったので今でも暗唱できるほど印象に残っている)

 このように、「国民精神」で強く結ばれ一体となっている国であるため、人々は、人種など目に見えること、先天的なこと、つまり精神的なこと以外の要素で人を一括りにすることに対し良くも悪くも敏感である。これは「アメリカ国民の性」なのだろう。人種などで人を括り始めると、国が一つにまとまれなくなってしまい、崩壊してしまうのだ。

 例の警察による男性の殺害事件に関し「白人が黒人を」という要素が真っ先に着目されデモに発展した背景にも、アメリカの国家としての性質があるのではないか。警察官の行為はいくら視点を変えてもいずれにせよ許されざる行為ではある。しかし、警察官による職権濫用という要素が真っ先に取り沙汰されてもおかしくはない。あの白人警察官は元々横暴な性格であるため例え相手が同じ白人であっても同じような態度を取った(必ずしも相手が黒人だから取った行動ではない)可能性もある。それでも人種の要素に真っ先に焦点が当てられ、Racismとして取り沙汰された。

 もちろん、African Americanの人々が立ち上がったのは、自分や自分の家族、祖先が受けてきた不当な扱いによるところが大きいはずだが、African-American以外のアメリカ人も皆次々に声を上げ、行動を起こしたのは、人種、のような先天的物差しで人の優劣を決めるような考え方を毛嫌いする国民性、潜在的な恐怖によるところが大きいのではないかと思われた。

多民族国家」とは真逆の島国ニッポン

  様々な肌の色を持った人がいるアメリカに対し、島国日本は外国人やハーフ以外、皆肌の色は同じ。つまり「日本人」は基本的に肌の色始め、見た目は同じである。長年、日本人は「日本人」以外とほぼ関わらずに生きてきた。「同じ」であることに慣れ、皆が「普通」であろうとする風潮の中では、ちょっと他と違う人は目立つし槍玉に挙げられやすい。外国人が増えた今でこそあまり無いと思うが、少し前までは外国人がいると、物珍しさからジロジロ眺め「ガイジン、ガイジン」と小声で囁き合い、外国人が不快な思いをするようなこともしばしばあったようだ。ハーフの芸能人も幼い頃には学校でいじめられた、と語ったりする。

 「自分と違う人」の立場に立って想像する機会があまり無いからこそ、このような行動も出てきてしまうのかもしれない。

 肌の色は同じと言えど、日本人も人それぞれ、様々である。性別から始まり生まれや育ちまで、多様である。自分と特に「違い」を持った人の視点に立って想像してみれば、その人なりの苦労も見えてくるだろうし、苛立っていたことも許せて少し優しくなれるかもしれない。それだけでなく視野が広がり、新しい発見もあるかもしれない。

  

まとめ

 差別はもちろん許されざることだが、人間誰しも完璧では無いため、多少なりとも何らかの差別の断片や芽を抱えてしまっている。先入観で判断したり考えたりしてしまう。私ももちろんそうだし、人の一側面しか見ずに「苦手な人」と決めつけてしまったことも恥ずかしながらある。差別の芽を根こそぎなくすことは人間である限りできないかもしれない。だからこそ、「自分も差別的な見方をする可能性がある」「先入観で考えてしまっている可能性がある」と「自覚」することが重要、だと強く思う。「これが正しい」と思う時も、それは自分にとって正しいのであって、他の人からすると完全なる間違いなのかもしれない、と思えば謙虚になれる。大多数が正しいと言っていることでも、言い始めた誰かが決めた枠組みの中での考えであるし、その他の人々はただ考えなしに同調しているのかもしれない。「あの人は○○な人だから」と一旦思っても、口に出す前に、「でもそれは私個人の考えだけどね」と心の中で付け加えれば、本人を傷つける手前で我に返ることができるかもしれない。

 もちろん、この記事もあくまで個人の(しかも何者でも無い若い小娘の)経験と考えに基づいて書かれている。この文章を読んでくださっている皆さんにも、この私の考えを聞いて、「正しい」と鵜呑みにして欲しくはなく、皆さん自身で色々と考えを巡らせ、「想像」してみていただけたら本望である。

 新型コロナウイルス感染拡大に伴う様々なストレスで、心が荒んでしまいそうな今こそ、一人ひとりの、周囲への「優しさ」「寛大さ」が重要な意味を持つと思う。私もただただ、優しく寛大な人間になりたい。