"想像力"で差別を軽減できるか?

 最近没頭した本の話を書こうと当初思い立ったものの、折しも、読んだ本が冷戦時代のNASAを支えたAfrican Americanの女性たちを描いた"Hidden Figures"だったので、本の感想から派生して、今アメリカに留まらず世界中に広がるAfrican American差別への抗議活動に寄せ、African American差別に留まらず、世界中で生まれている様々な「差別」について思うところを書いてみた。何者でもない小娘の意見なので、未熟さが滲み出てしまうであろう、、しかしそうして未熟さを露呈することも、"熟した"大人になるためのステップだと自分に言い聞かせ進んでみることにする。


差別への反応の仕方


 まずはそもそも書こうと思っていた本の話から、African Americanが差別に対し、どんな姿勢で立ち向かうか、について。"Hidden Figures"は冷戦時代のNASAを支えたAfrican Americanの秀才女性エンジニア達の話。

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数年前に映画化もされている

 著者の意図を確かめた訳ではないが、題名のFiguresには2つの意味が掛けられてると勝手に思っている。彼女達が携わったロケット発射、最終的には月に行って帰ってくるまでの綿密な計算の、「数字」という意味のFigureと、当時まだ女性は活躍し辛く、しかも人種差別の風潮も根強く残っていたアメリカで、なかなか表立って脚光をあびることは無かったが確実に縁の下の力持ちだった「人物」という意味でのHidden Figures。性別と人種という、二重の社会的ハンデを抱えながらも、自らの実力で周囲を認めさせ、偉業を淡々と成し遂げた若き女性達がそれはもうカッコいい……


 ここで感じたこととしては、African Americanは、不当な扱いを受けても憎しみや怒りに任せて反応するのではなく、相手を「許し」、能力・実力を持って静かに相手を認めさせる寛大さを持ち合わせているということだ。例えばラグビー映画インビクタスに描かれたネルソン・マンデラ大統領を見ていても感じた。彼ら彼女らのそうした精神に触れるたびに崇高な気持ちになる。

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マンデラ氏が心に刻んでいたWilliam Ernest Henley作の詩の名前が"Invictus"。"I am the captain of my life"というフレーズが映画Invictusの中でも印象的


 一方で、今アメリカで起きている抗議運動が一部暴徒化しているのを見ていると、African Americanの人々が暴力という形で差別に反応しているとも取れ、今まで彼らの心に蓄積されてきた痛みや苦しみをはあまりに大きくそうせざるを得ないのかもしれない、と心が痛んでいたが、「差別への抗議」から単なるストレス解消へと目的がすり替えられて行くのを見て別の意味で悲しくなった。自分の生活、新型コロナウイルス感染拡大の影響で溜まった不安やストレスの憂さ晴らしのための行動もあったと思うし、実際、自分の欲しいもの(Apple製品やラグジュアリ品)を略奪しているような"便乗者"もいると言う。

  そこで声を上げたのが、そもそも抗議活動の発端となった事件の犠牲者の弟さんだった。


「私は暴動を起こしたり、自分のコミュニティをめちゃくちゃにしたりしていない。あなたたちは何をしているのか?」
「そんなことをして兄が帰ってくる訳ではない」
「別の方法でやろう」


 彼にしか言えない言葉であったし、実際、彼の行動がその後の抗議活動の形に影響を与えていると言う。事件の犠牲者に一番近い人の気持ちや、デモがもたらす結果を想像すれば、抗議活動の本質に立ち戻り、人々は暴徒化することはなかったはず。しかし人々がその想像力を欠いていたため、彼は自ら、人々の心に訴えかけ、人々に立ち止まって「想像」を促した。

 
人種のるつぼアメリカに住んでいて感じたこと

 

 

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住んでいた街の様子。美しく聳え立つゴシック式の教会の他は空と緑が本当に印象的

 子供の頃自分がアメリカに住んでいた時のことを振り返ってみる。住んでいた場所は、人よりも馬や鹿、リスやウサギや熊など動物の方が多いんじゃないかと思うくらい、本当に「Country side」で、当然外国人も少なく、日本人なんて市内で数えるほどしかいなかった。だからと言って差別に遭うことはなく、人々はとても暖かく、傷ついた経験をしたことはなかった。
※それはそもそも日本人の私たち家族と親しくしてくれるような人はオープンマインドで優しい人たちだから、あるいは、差別的ニュアンスを含むことを言われてもそれを理解するほどの英語力をそもそも持っていなかったからだったという可能性は無論あるが

 
 日本人であることを特別からかわれることはなかったものの、周りが皆、透き通るように白い肌、青や緑の瞳に、茶色や金髪の美しい髪の毛を持っているとなると、当然劣等感のようなものを勝手に抱いてしまう。しかし、上に挙げたどれも日本人の私に手に入るものではない。そこで、せめて髪質だけでも、この直毛ではなく、友達みんなのようにくるくるカールのついた髪の毛にしたい、という思いから、夜な夜なお風呂上がりに半乾きの髪の毛を三つ編みにして寝て翌日解くとくるくるになるようにしていた。 

 しかしある時、友達と話していて「私はみんなのように綺麗な髪の色・目の色を持っていないのでみんなが羨ましい」と打ち明けると、「あら、私はむしろAyakaの真っ黒な髪の毛や真っ黒な瞳が羨ましい。AyakaにはAyakaの良さがあるよ」と言ってくれて、はっとさせられた。「違い」をむしろ「良さ」として受け入れてくれたのだ。以降、私は夜な夜な三つ編みなんかにせず自信を持ってドストレートな髪の毛のままで学校に行った。

 その他の場面でも、友達は皆、現地やアメリカ人と日本や日本人との違いを、"weird"ではなく"cool!"という態度で受け入れてくれた。このような周囲の対応により、私も家族も、住んでいた二年間を気持ちよくハッピーに過ごすことができた。

 アメリカは多民族国家であるため、無論、肌の色など目に見える要素で国民を一つにはできない。その分、国民精神で国を一つにする必要がある。「アメリカ国民である」、ということを人々はきっと他の国民よりも強く意識して生活している。街で目にするアメリカ国旗の数も多く、私と弟は、アメリカに着いた初日からその多さに驚き、一日に何個見たか数えたりしたものだ。通っていた小学校でも、各教室アメリカ国旗が掲げてあり、毎朝、全員で胸に手を当てその国旗に向かってアメリカ合衆国への"pledge of allegiance"「忠誠の誓い」を唱えていた。(二年間毎日やったので今でも暗唱できるほど印象に残っている)

 このように、「国民精神」で強く結ばれ一体となっている国であるため、人々は、人種など目に見えること、先天的なこと、つまり精神的なこと以外の要素で人を一括りにすることに対し良くも悪くも敏感である。これは「アメリカ国民の性」なのだろう。人種などで人を括り始めると、国が一つにまとまれなくなってしまい、崩壊してしまうのだ。

 例の警察による男性の殺害事件に関し「白人が黒人を」という要素が真っ先に着目されデモに発展した背景にも、アメリカの国家としての性質があるのではないか。警察官の行為はいくら視点を変えてもいずれにせよ許されざる行為ではある。しかし、警察官による職権濫用という要素が真っ先に取り沙汰されてもおかしくはない。あの白人警察官は元々横暴な性格であるため例え相手が同じ白人であっても同じような態度を取った(必ずしも相手が黒人だから取った行動ではない)可能性もある。それでも人種の要素に真っ先に焦点が当てられ、Racismとして取り沙汰された。

 もちろん、African Americanの人々が立ち上がったのは、自分や自分の家族、祖先が受けてきた不当な扱いによるところが大きいはずだが、African-American以外のアメリカ人も皆次々に声を上げ、行動を起こしたのは、人種、のような先天的物差しで人の優劣を決めるような考え方を毛嫌いする国民性、潜在的な恐怖によるところが大きいのではないかと思われた。

多民族国家」とは真逆の島国ニッポン

  様々な肌の色を持った人がいるアメリカに対し、島国日本は外国人やハーフ以外、皆肌の色は同じ。つまり「日本人」は基本的に肌の色始め、見た目は同じである。長年、日本人は「日本人」以外とほぼ関わらずに生きてきた。「同じ」であることに慣れ、皆が「普通」であろうとする風潮の中では、ちょっと他と違う人は目立つし槍玉に挙げられやすい。外国人が増えた今でこそあまり無いと思うが、少し前までは外国人がいると、物珍しさからジロジロ眺め「ガイジン、ガイジン」と小声で囁き合い、外国人が不快な思いをするようなこともしばしばあったようだ。ハーフの芸能人も幼い頃には学校でいじめられた、と語ったりする。

 「自分と違う人」の立場に立って想像する機会があまり無いからこそ、このような行動も出てきてしまうのかもしれない。

 肌の色は同じと言えど、日本人も人それぞれ、様々である。性別から始まり生まれや育ちまで、多様である。自分と特に「違い」を持った人の視点に立って想像してみれば、その人なりの苦労も見えてくるだろうし、苛立っていたことも許せて少し優しくなれるかもしれない。それだけでなく視野が広がり、新しい発見もあるかもしれない。

  

まとめ

 差別はもちろん許されざることだが、人間誰しも完璧では無いため、多少なりとも何らかの差別の断片や芽を抱えてしまっている。先入観で判断したり考えたりしてしまう。私ももちろんそうだし、人の一側面しか見ずに「苦手な人」と決めつけてしまったことも恥ずかしながらある。差別の芽を根こそぎなくすことは人間である限りできないかもしれない。だからこそ、「自分も差別的な見方をする可能性がある」「先入観で考えてしまっている可能性がある」と「自覚」することが重要、だと強く思う。「これが正しい」と思う時も、それは自分にとって正しいのであって、他の人からすると完全なる間違いなのかもしれない、と思えば謙虚になれる。大多数が正しいと言っていることでも、言い始めた誰かが決めた枠組みの中での考えであるし、その他の人々はただ考えなしに同調しているのかもしれない。「あの人は○○な人だから」と一旦思っても、口に出す前に、「でもそれは私個人の考えだけどね」と心の中で付け加えれば、本人を傷つける手前で我に返ることができるかもしれない。

 もちろん、この記事もあくまで個人の(しかも何者でも無い若い小娘の)経験と考えに基づいて書かれている。この文章を読んでくださっている皆さんにも、この私の考えを聞いて、「正しい」と鵜呑みにして欲しくはなく、皆さん自身で色々と考えを巡らせ、「想像」してみていただけたら本望である。

 新型コロナウイルス感染拡大に伴う様々なストレスで、心が荒んでしまいそうな今こそ、一人ひとりの、周囲への「優しさ」「寛大さ」が重要な意味を持つと思う。私もただただ、優しく寛大な人間になりたい。 

弟のその後と明日へのエール

気がつけば前回の更新から9ヶ月も経ってしまいました。
前回は、中学3年生になった弟が、精神薬の服薬により絶不調に陥りながらも、高校受験に挑戦するところで話が終わっていました。

弟は、父親も通った鹿児島のラ・サール高校が志望校でした。
薬の影響で脳の機能は低下し、心も不安定な中でしたが、志望校は変えずに受験に挑戦しました。保護入院などもしていたため、ろくに勉強する時間も取れないまま入試当日を迎えました。
当日ちゃんと起きることができて、試験会場で何事もなく試験を受け終わっただけでも奇跡だと、私たち家族は思いました。
しかし、弟は合格も手にすることができました。弟と私はちょうど3歳差なので、その年私は高校受験、我が家にとっては「ダブル受験」の年でした。私の大学合格を報告するFacebookの投稿に遡ると「家庭内でも色々ありましたが」と書いています。

奇しくも、我が家にとって最も暗い時期が、我が家にとって最も大事な時期なのでした。

ラ・サール高校は鹿児島、私たちが住んでいたのは熊本だったので弟は高校の寮に入ることになりました。高校からはリセットして、心機一転、頑張ろう、と家族全員、前向きな気持ちでいました。
しかし、高校生活をスタートさせて間も無く、「高校生活が始まることでストレスが増えるだろうから」ということで、弟は医師からまた薬の量を増やされました。その影響で弟はだんだん朝起きれなくなっていき、とうとう授業にも行けなくなってしまいました。最初は高校に行けていたのが、薬が増えた後からは、毎日眠くてたまらなかったそうです。

「息子さんが最近授業に出られなくなってしまって…」と、ラ・サール高校から母に連絡が来たのは、私の東大入学式に出席していた時でした。周りには東大の新入生とその家族の幸せそうな笑顔が溢れ、祝福ムードに包まれている中で、母は私にも弟のことを話す気にはなれず、その場の祝福ムードに合わせて笑顔を取り繕いながらも、一人心中では不安と悲しさでいっぱいだったと言います。ラ・サールから連絡が来たのは私の入学式の最中だったというのを、私は随分後になってから聞きました。

 

流石にこの頃になると、両親も薬の影響を疑い、減薬することにしました。急な減薬もまた、離脱症状を招いてしまうので慎重に行わなければなりません。(なので、このブログをお読みの皆さんも、自身や周囲の方が心の問題を抱えていて何か服薬をしている場合、急に減薬はせず慎重に行ってくださいね)


当初は順調に減薬できていましたが、最後に減薬に失敗し弟は精神撹乱を起こしてしまいました。皆さんも、これは薬による禁断症状だとお思いになることでしょう。しかし、弟は病院で今度は「統合失調症」と診断されます。「薬のせいでこうなったのに…」と弟は診断にショックを受けてしまいました。と同時に、弟は、改めて、「自分を病気に仕立て上げている薬と縁を切ろう」と、断薬を決意しました。

 

そんな時に出会ったのが、地元熊本の和漢堂松田医院の松田先生でした。この病院は「薬やめる科」という名の科があり、減・断薬指導を行っていました。その先生の指導のもと、弟は改めて断薬に取り組み、しばらくの間順調に減薬できて、高卒認定試験にも合格しました。しかし、また断薬の終盤に差し掛かったところで、精神撹乱を起こしてしまいました。

薬というのは人間の身体には本来不要なもので、完全に外から入ってくる「異物」なので、飲み始めることにしろ、飲むのを辞めることにしろ、身体にとっては本当に大きな変化です。そのため、断薬は本当に難しいことです。長い時間をかけて少しずつ薬の種類を減らし、服薬量を減らさなければ身体が適応できず禁断症状が出てしまいます。弟も、このように何度も断薬に失敗してしまいましたが、今度こそは成功できるように、と今も頑張っています。

今では薬の種類も一種類になって久しいですし、飲んでいる量も以前に比べると極めて微量です。運動や食事など本人の努力もあり調子はすこぶる良く、薬を飲み始める前の弟に戻ったな、と実感する今日この頃です。

高校は卒業できませんでしたが高卒認定試験は合格しているので大学受験する資格はあります。今は受験勉強をしながら、(普通より社会経験ができていないのを少しでも補うために)バイトをする毎日です。本人の夢は、ある日は自分のような思いをする人を一人でも減らすため、精神薬を使わない治療をする医師になること、、、だったり、またある日は、いっそのこと医療から離れて、鍼灸師として人々を癒すこと、だったりと日々揺れ動いています笑

何にせよ、ここからの人生は、誰にも何にも縛られることなく、不当に苦しむことなく、自分らしくのびのびと生きていけたら何でもいいじゃない、と姉としては思う毎日です。

 

こんなに込み入った家庭の事情をわざわざ公開すべく昨年から筆を取ったのは、弟のような思いをする人を一人でも減らすために何か行動したかったから、
そして、悪者探しをするでもなく誰のせいにするでもなく冷静に客観的に、我が家で起こったちょっとイレギュラーなことを振り返りたかったから、

それから家族に向け私なりのエールを送るためです。
壮絶になってしまったここまでの人生を生き抜き、これから羽ばたく弟。
自分のせいでこうなったのだと自身を責め続けるのを何とかやめて、前を向こうとしている母。
弟の一番近くで日々マイペースに?叱咤激励する父。

(全員、頑張れーーー!我が家に降りかかったこの困難、最後まで気を抜かずみんなで乗り越えましょう)

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。少しでも、何か皆さんのお役に立てることがあったのであれば、とても嬉しいです。

 

 

 

精神薬によって狂わされた弟の半生について

昨今世間で、やたらともてはやされる、うつ病発達障害、と言った、「脳の病気」「心の病」への疑問を前回の投稿で投げかけて終わり、早一ヶ月が経過しました。

 

前回のブログの最後に、精神薬の「犠牲者」となった弟の人生について語ると書いたので約束通り、皆さんに弟の人生についてお伝えしてみようと思います。

 

前回のブログでも少し触れましたが、

弟は、ごく普通の、元気な男の子でしたが、中学生の時に不登校になった際、精神科医から「アスペルガー症候群」と診断され、以来、精神薬の「薬漬け」になってしまいました。

 

弟と私が通った、熊本大学教育学部附属中学校は、県内でも随一の進学校で、体育祭や、合唱コンクール、駅伝大会など生徒たちに行事もかなり頑張らせる熱心な中学校でした。そうした行事のうちの一つ、駅伝大会の練習期間中に、弟は不登校となってしまいました。

 

サッカー部に所属していた弟は、駅伝大会にて、サッカー部の名に恥じない良い走りをしてクラスの優勝に貢献したい、という自負を抱いていましたが、その思いがプレッシャーとなってしまい、学校に行くのがだんだん辛くなって行ったようです。

駅伝大会には出場したものの、その後疲れ果てた弟は、学校を休むようになりました。

 

当時、私含めた家族は、弟のただの怠慢だと捉え、弟を責めたり説教したりして、無理やりにでも学校へ行かせようとしてしまいました。しかし、押しても引いても状況は変わりません。学校に行けない日が数ヶ月続くと、母は、「病院には診せないんですか」と学校から強めの口調で促され、やむを得ず弟を精神科へと連れて行くことにしました。

弟も私もそれまで不登校になったことなどなく、初めての状況に母も焦ってしまいどうすればいいのか分からなかったと言います。そこで、学校に言われるがままに弟を病院へと連れて行ったのです。

しかし、母親は、

「息子は朝起きられないだけなんです。朝起きられるよう習慣付けてくれるようなところはありませんか?」

と医師に相談したところ、

「そんなところ、ある訳ないじゃないですか」

と医師は冷たく一蹴したそうです。

また、

「成長期にこんな薬を飲んで影響はないのですか?」

と尋ねたところ、
「全くありません」
との答えが返って来たため、母は、この言葉を信頼することにしました。

さらに弟は、「アスペルガー症候群」と診断され、何種類もの薬を処方されました。

母が診断結果を学校に伝えると、学校はどこか安心したような様子だったと言います。

弟は、処方された薬を飲み始めましたが、事態は良くなるどころか悪化していきました。弟はどんどん眠れなくなり、朝もますます起きられなくなってしまいました。

当然、学校にも行けません。私たち家族は、そんな弟の状況を、診断された「アスペルガー症候群」のせいだと信じ切っていました。

さらに、弟は、以前よりどこか自分勝手で暴力的になっていき、私たち家族にも暴力を振るうようになってしまいました。

母も父も、「アスペルガー症候群」や「発達障害」について必死に調べ、対応策を考え続けました。

ここで私含め家族は、弟の異変が診断された「アスペルガー症候群」のせいだと信じ、まさか薬のせいだとは気づかなかったのです。

一度診断された病名、専門家の意見というのは、それほどに絶対的に思えてしまうものなのです…

その後、しばらくして弟は、診察を受ける病院を変えてみましたが、そこでは飲む薬を一気に変更されました。

定量の薬を一定期間飲んでいて、その薬を飲むことを急にやめたり、飲む薬を一気に変えてしまったりすると、人間の体はその変化に対応できず、副作用や禁断症状が出てきてしまいます。

当然、弟も、精神状態がおかしくなってしまい、住んでいたマンションのガラスを割って警察沙汰にまでなってしまいました。その後医療保護入院となり市内にある精神科の病院に入院する事になりました。

実は、薬を一気に変更させた病院の主治医は、アメリカに赴任していた際、3歳の少女にセロクエルという抗精神病薬を不当に処方して、結果的にその少女を死なせたという、犯罪歴とも呼べるおぞましい経歴を持つ医者だったのです。

もちろん、弟が診察を受けていた当時は私たち家族はそんなこと、知る由もありませんでしたが、後になってこの医師の経歴が判明しました。この医師によって、弟の命まで奪われてもおかしくなかったのだと思うと、本当に恐ろしく思います。

また、先述の事件がアメリカでは社会的に大きな問題となったため日本に戻って来たその医師が、今も熊本で診察を続けていることが本当に恐ろしいです。

住んでいたマンションのガラスを割ってしまった事件の後も、ちょっとしたことで「キレて」物を投げたり、私たち家族に当たるといった弟の問題行動はその後もなかなか止みませんでした。

元々はとても穏やかで怒ったりすることも滅多に無いような弟の性格からすると考えられないような行動でした。

そんな中、弟は中学3年生、受験生になりました。なんと、弟は、薬により脳を蝕まれているこの最悪な状況下でも受験という大きな試練を乗り越えるのです。そのお話は、また次回、させて頂きます。 

 

 

 

「心の病」はきっと嘘。簡単に薬は飲まないで

アスペルガー症候群ADHD、双極性うつ病、自己愛性パーソナリティ障害、統合失調症、…現在、世の中には多くの「脳の病気」「心の病気」が蔓延っています。あなたの身近な人、もしかするとあなた自身もこれらのうちの一つとして診断されたことがあるかもしれません。一度医者から診断されてしまうと、自分も周りも「病気だ」と思い込んでしまいます。しかし、本当に病気なのでしょうか?一時的に気持ちが落ち込んでいるだけなのでは無いのでしょうか。何かしらの診断を受けると何かしらの薬を処方されますがそれは本当にあなたを癒してくれるのでしょうか。。。?

私は、東京大学の、医学部【健康総合科学科】と言う、医学を、臨床よりも社会の視点から、病気よりも健康に焦点を当てて学ぶ学科の出身です。

医者になる訳ではなく(私は行っていませんが看護師の資格が取れるコースはあります)、理Ⅲ出身が集まっている訳でもなく(文Ⅲから理Ⅱまで様々なところから来ています)、4年生で卒業します。卒業後は就職する人、院進する人が半々。学ぶ内容は、社会学、免疫学、疫学統計学、人類生態学、薬理毒性学、分子生物学、保健学と多岐に亘ります。

その中で、「精神保健学」という授業もありました。「精神保健学」の授業では、「ADHD」「自己愛性パーソナリティ障害」といった、脳の病気・心の病気の診断基準が紹介されました。その授業の後、受けた私たち学生の間から「ADHDの基準、私結構当てはまるんだけど笑」「落ち込んでる時は、結構な人がうつ病の診断基準当てはまる気がするんだけど…」との声が上がり始めました。そして、そもそも誰にでも当てはまり得るような診断基準、心の病気・脳の病気そのものの存在を疑問視する空気が、私たち学生の間に流れました。しかし、そのように診断基準が曖昧でも、脳の病気・心の病気には、「抗うつ薬」「向精神薬」といった、治療薬が存在し、診断されたら即薬物療法、という流れに違和感を感じました。

 

私がそもそもこの学科に進学したのには様々な理由がありますが、大きな理由の一つとして、私自身の弟の存在があります。

私の弟は、小さいころからごく普通の、元気な男の子でしたが、中学生のある日、学校に行きたくないと言い出し、不登校になってしまいました。中学校の先生たちから「医師の診断を受けるべきだ」と熱心に説得されるがままに母は弟を病院に連れて行き、そこで弟は「発達障害アスペルガー症候群」と診断されました。それ以降、「発達障害」が私の中で大きなキーワードとなりました。「発達障害って一体なんだろう」「勉強でもスポーツでも私より出来の良かった弟が、なぜ発達障害なのだろう」と、様々な疑問を解消したくて、(医者や看護師になりたい訳でもなく)単純に、「発達障害」の正体を突き止めたくて、この医学部健康総合科学科に進学しました。いよいよ発達障害について学べる、と私はワクワクしており、精神保健学の授業もとても楽しみにしていましたが、衝撃的なことに、その授業で知ったのは、前述の通り、脳の病気・心の病気の非常に曖昧な診断基準と治療法の不確実性でした。

 

どうも腑に落ちなかった私は、学科の海外研修制度を利用して、一人、「発達障害のケアの先進国」ニュージーランドへ一週間赴き、ケアの現場をこの目で確かめに行きました。本当は私が会いたかったのは、日本で急増中の、「うつ病」や、弟が診断された「アスペルガー症候群」の患者さん達だったのですが、どう探しても、そうした人のケアを行なっている施設は見つかりません。どうもおかしいと思ったのですが、きっと、ニュージーランドにはそんな基準が曖昧な「心の病」「脳の病」の患者さんがそもそもいなかったのでしょう。(代わりに、ディスレクシア(読字障害)など自閉症…先天的発達障害者の支援施設は数多く見つかりました。そのいくつかを訪問したのですが、そこで貴重な学びを得られました)

ここで、もしかして、後天的な「統合失調症」「うつ病」と行った病気は、本当は実体は無いのに勝手に診断され(日本)社会が作り出しているものなのでは無いか、という恐ろしい疑いが浮かび上がって来ます。

科学的に裏付けされた根拠もなく勝手に診断され、訳のわからない薬を処方され、ありもしない病気のせいではなく、その処方された薬のせいでどんどんおかしくなっていく…

信じられないかもしれませんが、実はこうした「犠牲者」が、今、世間には多く存在しているのです。その根源には、医者の診断など「専門家の意見」を絶対的なものとする日本社会の構造といった根深い問題があるので、そう簡単に解決できるものではありませんが…

私の弟も、まさしくそうした現状の「犠牲者」の一人です。

次のブログでは、そんな弟の人生について、語ってみようと思います。